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宗教思想と物語について

2021年10月31日

いつも創作お疲れ様です。

ようやくアフターコロナが近づき、長いトンネルの出口の光が見え始めてきましたが、最近、ボーっと考えることが多くなり、今回は、ストーリーづくりにあまり関係のない雑記になってしまいますが、お付き合いいただけたら嬉しいです。

本日は結論は、
神を信じる人々とそうでない人々の狭間にあるのが〝物語〟
です。

だから何?って言われちゃそこまでなんですが、人間が物語を想像する究極のルーツを題材とした長文記事になりますが、興味がなければ遠慮なくバッサリスルーしてくださいw

とはいうものの、創作のアイデアを出すのに、多少視野は広がるのかもしれませんが、なにかの参考にしていただけたら幸いです。(コーヒーでも飲みながらごゆっくり)

早速、〝宗教〟というのは、「知らない人が騙される精神的な弱者のいくところ」などで、カルティズムに気をつけるべきとだとか、ネガティブイメージがあると思います。

日本は特殊で、あらゆる宗教や文化を取り入れながら形成された国家ですが、無宗教国家とも言えるでしょう。

昔、米宗教のヘブンズゲートの集団自殺、日本のオウム真理教による地下鉄サリン事件など、大規模な無差別テロや問題を引き起こした汚点をみれば、人々が警戒心をいだきやすいです。

最近でいえば、政治の縺れで、聖地パレスチナを巡る紛争とか、いらぬ正義感を煽るいわば〝宗教はアヘン〟だといわれても仕方がないかもしれません。

宗教思想が組織化されると利潤が生まれ、弱みをつけこむ偽善者(偽教育者)が出現し、それをありがたく受け取る人々が思考停止(自分の頭で物事を考えられない)する危険性は少なからずあると思います。

宗教に入信すると、自主的に人に広めたくなるんですよ。なぜなら、一人じゃ怖い(恐れの感情)があるので、幸せを共有すると同時に、共通の仲間が欲しくなるからです。

それ自体は悪くはないですが、極端なパターンですと「自分の信じた宗教だから正しい!間違っていない!」という観念に飲まれ、怒りの感情や意固地になってしまいやすいんですね。

ボクが心理学や社会学を勉強するようになってからですが、その現象はある意味、人間の「防衛本能」とも呼べると考えるようになりました。

神なんていない、別に神なんて信じなくても生きていける人、宗教カテゴリ外の価値観を抱く人々の反応は冷たいと思います。

「あのさ。あなたのその教えは、作り話ですよ。」

「騙されているよ。私は信じないから」

「あなたが弱いから宗教につけこまれるんだよ。もっと強くならないと」

「それは脳の錯覚であり、幻なんだよ」など。

神の存在や、死後の世界を敬遠する人たちは極めて現実的で入信者をマウンティングするでしょう。それによって、益々入信者を活気づけてしまうのも厄介な話だと思います。信仰を持つ人ってすごい執念をもってますからね。

ボクは、宗教思想や入信者を揶揄したいのではありません。

目に見えるものだけを信じ、もしこの世に〝神話〟が存在しなければ、人類に不平不満をいう、目先の利益だけに走る人間が、バカスカ増えてしまうと感じてます。

〝必要悪〟という言葉があるように、宗教も人類が幸せな人生を送るために必要だから存在しているのではないでしょうか。

宗教の入信者の対極にあるのが〝無神論者〟で、もし、彼らたちだけの世界となれば、弱者を裁き、損得勘定の世界だけを追求する実力主義が覆い尽くし、世は今以上に荒れてしまうと思うのです。

そういう意味では、宗教思想とは、人間の道徳感や倫理感を助長する役割を果たし、共存や調和のバランスを保っているのではないでしょうか。

で、何を偉そうに、と思ったかもしれませんが、ここからは〝物語〟についてお話したいと思います。(ほんま恐縮です・・・)

理想や夢を追い続ける人を見ると、周囲の人は〝夢追い人〟だとレッテルを貼りがちで、無関心か、足蹴にされ、隅っこに追いやられたり、出る杭は打たれるのが常です。少なくとも応援はされません。

ですが、人間は、やっぱり歌(詩)や物語をつくらないと満足できないし、益々、生きづらく、ただ単に食べて、クソしたり、セックスして生きていくだけで終わってしまいます。(嫌じゃないですか、それって・・・)

もし、愛や理想を尊ぶような、歌や物語がなかったら、ボクは世の中クソつまらないと思いますね。やっぱり、人は何かを創造的な活動をしないと生きていられないと思うんですよ。

個人的に思えることですが、今、時代は大きく変わろうとしているのを感じています。

狩猟社会から農耕社会、

農耕社会から産業社会、

産業社会から学歴社会、

学歴社会から人柄社会(AI)

気になる、この人柄社会とは、これからAIが発達していくので、おそらくパーソナリティー(独自性)が求められる社会になるでしょう。

まぁ、否応なしに、これまでたくさんの価値観がシフトし人類はいつの時代も、混沌の中をあえいでいたような気がします。

関連記事:AIとパーソナリティー

学歴が高くければ、大手の会社が〝終身雇用してくれる企業に入れない〟イコール〝結婚できない〟イコール〝終身雇用で安定した生活ができない〟というのも、物語(神話)になりつつあります。

物も安値で、美味しくご飯が食べれるコンビニもあるし、結婚せず、男女別々でも生きていくには困らない。

インターネットがあれば、そこそこ楽しめるし不自由はしていないなど、多様な価値観がウヨウヨ現れはじめて気楽っちゃ気楽ですよね。

つまり、個が幸せであれば、生き方というのは、それぞれ自由だという流れに変わってきていると思います。

欧米のポピュリズムに馴染んできた近代では、私小説(わたくししょうせつ)という造語が現ました。

それは、ありのままの自分を描き、利益を度外した血のにじむような努力をした作家たちがいました。

それとは対照的に、生まれたときからインターネットが身近にある世代の生き方とは比べものにならないほど、選択肢は多く、表現方法もゲームやノベルティーやコスプレなど多様化されてきています。

デジタルネイティブ世代以前に生まれた人々たちは、大衆の目を過度に恐れ、息苦しくなっていると思いますが、デジタル世代以降の世代は、既存の価値観にしばられない自由な発想ができる時代にもなったような気もします。

その変わり〝自己責任〟という言葉が現れるようになりましたよね。そんな混沌とする矛盾だらけの世に、わけがわからず私たち作家(もしくは作家志望者)として生まれっちゃったんです。

自由の時代とは、なんと軽くて重いことでしょうか。(^_^;)←すげぇ呑気

ですが、作家は物語を生み出す力を備え、その物語という役割りが、きっと人が豊かに暮らしていける価値があると信じています。

人間が動物でないと証明できる要素は〝物語が作れる〟ことだと思います。

「来週、友達とレストランへ行きたい」

「彼女と映画にいきたい」

「家族でどこどこを旅行したい」など

物語(ロジック)を作れるからです。

「こんな風にできたらいいな」

「あんなことができたらいいな」

と理想や物語をイメージして、状況をコントロールできるのが霊長類である人間の特権だと思います。

人間は、穀物や魚類や動物を食べているし、多くの万物の犠牲によって生かされていいますが、「それを当然のように感じてはならない!」と提言しているのが宗教思想で、それを教育し馴染みやすくしたのが他ならぬ〝物語〟だと思います。

日本文化は、悪いことをすれば、必ずお天道様が見ている。だから人が見ていなくても真面目に生きることが賢実な生き方だと教えたり、お椀とお箸を見た時、直接会ったこともない農家の方々に感謝し、ごはんをありがたくいただく。

これも、目に見えない何かの存在を信じる宗教行事とも呼べなくはないでしょうか?

しかしながら、過度な戒律だけを押し付けては、息苦しくて大衆がついてこないので、その緩衝材として現れたのが〝物語〟であり、中世あたりから宗教に活用される形になってしまったのかもしれません。

その〝物語〟は、しばしファシストの扇動材料としても政治利用され、人々を制圧し蹂躙してきた歴史もあり、その傷跡は未だ癒えていません。

宗教思想と無神論、どっちが正しいかではなく、その中間に立たされているのが〝物語〟であり、〝物語自体に罪はないと思います。

神がいるかいないかなんて、目に見えないからわからない、あるいは、神が存在するから、社会的に宗教家が必要だ!とか、もはや、そんな善悪観念の問題ではなく、個人が信じるか信じないかのレベルの話ではないでしょうか。

人が死んだら黄泉の世界や、霊界(冥界)が存在し、天国や地獄にいくか?死後の世界があるのか?

それってのも、ぶっちゃけ死んでみないとわからないし、「ある」とか、「ない」とか議論しても証明できっこありません。

ですから、来世のことより〝今を考えべき〟と唱える人々でさえ、我々が生活していく世の中にとって絶対的に必要だといえなくもないのが、この〝物語〟ストーリーづくりだと思います。

しかし、善悪の観念が荒むと、世の中が乱れてしまうことは確かでしょう。それを歯止めをかける役割が宗教思想だと思います。

人間とは残念な生き物で、歴史上、現実主義者と理想主義者の激しい衝突が何度も起こりました。

もし、天災や災害で大多数が食糧不足になり、餓死寸前の非常事態になったとき、人は、これまで飼っていた愛するペットを食料にしてしまうかもしれません。

戦争という異常な環境に人がおかれれば、敵(人)を撃ち殺しても正義となるし、塹壕を掘ることも、飛び交う銃弾の中をくぐり抜ける恐怖心も、良心の呵責などは感じなくなります。悲しいことに、それが普通の状態になってしまうのが人間なのです。

戦国時代に、農家の若者が戦(いくさ)に備え、訓練し、いざ殿様から出陣する御布令が出た時、「んじゃ、人殺してくっから!」と軽いノリだったような気もします。

とにかく人は、環境や流れができれば暗黙のルールにしたがってしまいやすい弱い生き物ではないでしょうか。

人間を物質的存在としてみるなら、道徳とか倫理というものはいらないし、世界は、残酷で虚無感に襲われるだけです。

ペットと戯れた思い出や、暖かい物語があったからこそ、人は喜びを見出したり、悲しんだりできる。それが人間の美しさであり、芸術活動だと思うんですよね。

大好きだったおばあちゃんが、今も天国から私を見守ってくれていると、本当か嘘かもわからないような物語を求めたり、崇めたりすることで、人は満足感や幸せを得られるのかもしれません。

逆に、大嫌いな意地悪クソったれババーなら、遺骨をお墓に埋めても管理費がかかり、生者の生活を蝕む、ただの金食い虫になってしまうでしょう。

死者が見守っている存在が「いる」「いない」は横に置いて、それは個人の心のあり方の問題で、人はいつの日も〝心の拠り所〟を求めているのではないでしょうか。

宗教思想とは、自分の内にとどめておけば否定する人は現れないし、文句もいわれません。信じてくれる人がいないからといって目くじらを立てて騒ぎたてる話ではないかと思います。

恐ろしいのは、人間性を無くす時です。人間性を無くす時は、〝物語〟を失ってしまう時であり、物語に対して価値を感じなくなることだと思います。

何の憧れもなく、理想を追い求めることもなく、ただただ、人の心は荒んでいく・・・・。

だから、作り話を作ってでも、人は物事の美点を見出そうと生きようとしているのではないでしょうか。おそらく人間は絶望しないためにロマンを欲しているし、神がいようがいまいが、美しい物語を求めていると思います。

そんな需要を満たそうと努力している人々が、作家たちです。そう。あなたのことですよ!

ボクはそんな作家さんたちのために、微力ながらでも力になりたいと願って綴っております。

世の中の明るいニュース、暗いニュース、過去の思い出や未来への予定論など、良かろうが悪かろうが、みな抗ってます。

この世を作った存在がいるにしても、いないにしても、物語や神話が伝承していなければ、きっと世界はもっと酷たらしく荒れ果てていたと思います。

信じるものを取り上げたら、残虐な事件は起こる、という主張は厳密に言えば正しくはありません。

生贄をささげ、神の怒りをしずめようとした古代宗教以前、狩猟が主だった原始時代でも、農耕が主だった地域でも宗教は存在していました。

しかし、絶え間なく葛藤と対立、脅威と危機がいつの時代も起こっており、「いつになったら平和の世がくるのか」と苦しみあえぎ、絶望せず〝物語〟をつくり、希望や夢を胸に這ってきたと思います。


この〝物語〟という代物、、、元をたどれば、作家の原型ができるまでのお話ですが、ようするにですね。おそらく〝占い師〟や〝予言者〟という類(たぐい)の特殊な人種が存在してたと思うんですよね。

RPGで言えば魔法使いのような。

例えば、「ここに行けばマンモスと出会う」とか、「明日は雨がふる」など。当時、稀な直感力というか、高度な知性をもち、感覚が冴えた原始人が現れていたと思います。

もっと単純に言えば、「こうすればああなる」「ああすればこうなる」と未来予測や考えることのできる、感度がとびきり優れた天才が現れた。その存在はマジシャンともいえたかもしれない。

そのマジシャンの思考背景は、〝人間は一人ひとりで狩りをする〟より、〝集団でチームワークで大きな獲物を収穫した方が、より多く食料を分配できる〟といった大局観です。

〝一人で食べるよりも全員で協力しあって食べる〟という考え方が、効率的だと思ったのでしょうね。

ただし、〝運〟がよければ・・・

これが、農耕革命以前に起きた、意識革命だと思います。

そう。その〝運〟をよくするために、生まれたのが共通の〝物語〟と言えるでしょう。

具体的には、ある人が、つぶやきました。

「どこどこの湖に、水神様がいるそうだよ・・・」

「え?本当?」

「うん、本当の話らしい・・・」

そんな〝共通意識〟を持ち、マンモスや大量の食料を捕獲したり、物事を解決させたり成功させる実績を出すことで、飢餓に苦しまなくて済むようになります。で。水神様というありがたいストーリーが出始めると、人々の間で、こうつぶやきます。

「そのお姿を見た人がいたらしい」

「え?どんな感じ?」

「髪が黄金で長くてとても美人だったみたいだよ」

「俺もその話を死んだばーさんから聞いたことがあるよ」

原始人は、冬場を越さないといけないので、死をも恐れぬ勇気や、戦うことに意義を見出し、楽しくなったり連携プレイを学ぶようになります。


人は、共通の話題があると元気がでますよね。映画とか、アニメとかの話題を中心に絆や友情も深まります。

よい物語は人と人を結びつけるパワーがあると思います。

「狩猟がうまく言ったのは、あの占い師のおかげだ」

「いやいや、水神様のおかげだよ」

人は、自分が信じているものが世界のすべてだと思いがちで、それはそれで厄介なんですが、その占い師は、神のおかげ(お告げ)という無形の対象を作り、その土地に相応しいオリジナルの物話をつくり文化を築き上げたんだと思います。

それが、各国周辺宗教のはじまりではないかなと考えます。

洞窟の中で火を灯し、円になって火を囲む。当時の原始人から見れば、火は冬をこすのにとてもありがたい存在でした。(この記事を読んでて、そろそろ眠くなってきてません?)

原始人はそれをありがたいと思い、目に見えぬ存在を信じるようになり、火を与えてくださった〇〇のおかげだと共通認識を持つようになり、心の結束を生みます。

つまり、物語は、皆が、一丸となれば冬の食料確保する目的に決起させる武器とも考えられます。

現代人は食料を調理するのにガスを使いますが、〝ガスの神様〟とは考えません。〝ガスで火を起こすことを考えた人がいた〟と認識しているので、当然と考えます。

スピリチャルや自己啓発セミナーとかでは、〝家があるから感謝しよう〟という〝ごはんを作ってくれた農家の人に感謝をしよう〟という心の浄化へいざなおうとします。

それは、無形なる神への感謝ではなく、あくまで人間世界におけるやんわりとした戒律ではないでしょうか。

高次元への存在対象にアクセスする入口であり、〝物語〟とはそういう意味で何かしら人々の心の拠り所として役立っていると思います。

そのように我々の祖先は、火は神聖なものとして認識し、見えない存在に供え物を捧げるようになりました。

それだけ厳しい大自然の中で生き抜くのに、必死だったと思うし、物語は人を一つにするパワーを秘めており、

卑弥呼は、占いで大和国を動かしていたと言われています。それも太古の昔、イザナギ、イザナミの物語が生まれた神話をバックボーンとして。

今日までそのDNAを私たちが引き継いで、〝物語〟は生きていく上で欠かせないものだと考えます。

宗教の本質は、何かを一心に信じることだけではなく、人々が〝安心を得る〟ことでもあると思います。

例えば、宗教に入信してみて祈ってみたら、願いが叶った。それによって(偶然かもしれないけど)安心する。

あるいは、「こうしたらよい」と言われたことを実践してみたら願望が叶った。安心し、確信します。

あなたの物語を聞いて、人は、「何故あなたはそれを信じたのか?」と知りたがり伝播していきます。人は、〝謎〟や〝クエスチョン〟に弱い生き物ですから、ついつい知りたがるし、群がろうとします。

物語があるから宗教があったのではなく、ものもと、アクションを起こし信じたものの背景にあって物語ができる。

最後に(長いですよね。はい。もうすぐ終わりますので・・・)

ボクがこのブログで創作前の3つの決め事(①なぜどのように)のうち、なぜ?という項目が一番大切でもっとも難しいものです。

それは、〝何故あなたが存在しているのか?〟〝何のために存在しているのか?〟と自問自答せざる得ないですし、その答えは、一人一人異なるからです。

あなたのアイデンティティは、日本の成り立ちやルーツに限らず、あなたの生き様(歴史)を見直す作業ですし、アイデアを出して物語を作る前に、整理してブランド化ができれば、イキイキとした物語が生まれてきます。

あなたにしかない、唯一無二の物語。それは唯一無二の自分を信じられるか否かかと思います。

あなたは何を信じてますか?

そして、その何かを信じる自分を本当に信じますか?それは何故でしょうか?

外にあるものではなく、自分の内にあるものです。

関連記事:創作前の3つの決め事

大石内蔵助が、殿の仇のために、吉良を切ったという国民的名作『忠臣蔵』をご存知でしょうか?

残念ながら実際には吉良は四国へ逃れたというお話です。しかし、殿に対する忠義を美しい物語です。

きっと幕府のお偉いさんたちが、一つのエピソード(事件)を元に、民の教育材料として企てたものではないでしょうか。(ボクって可愛げないですね)

新約聖書では、イエス・キリストが十字架で処刑されたことが重要ではなく、「主よ!許し給え!」「この者たちは何をしているのかわからないです」というクライマックスシーンで、敵意むき出しの輩に対して、恩讐までも包みこむ愛を描きました。

そう。事実かどうかではなく、その真実の愛や、忠義が貴いものだから伝説として残り、それらの生き方や思想は、人々の心の礎として、文化として脈々と根付いているかと思います。

関連記事:主義&ニズムというバイアス

少し小難しい話をしてしまいましたね。

本日の記事は、夢や理想を求め、神を信じる人々と、そうでない人々の狭間にあるのが〝物語〟でしたが、寝落ちせずに、最後までお読みいただけてありがとうございます。

お楽しみいただけたら嬉しく思います。不定期更新で申し訳ないですが、またお会いしましょう!

あなたの創作を応援しています。

関連記事:今の時代、無名作家の方が強い